とらのもん

どこにでもいる普通のホモが日々思ったことを徒然と綴ります

杉田水脈さんの発言へのいち当事者(ゲイ)としての意見

たぶん、たくさんの性的マイノリティ、いわゆるLGBTの方たちが何らかの形で目にしたであろう杉田水脈衆議院議員の発言。

実際に新潮に寄稿した内容について載せることはできませんが、かいつまんで要素をまとめると以下の通り。

 

タイトル:「LGBT」支援の度が過ぎる

  • LGBTといってもそこまで差別されていないのではないかと、自分が差別をしないという点を挙げて主張
  • 子どもを作らない(≒作れない)ことを理由に『生産性』がないとして税金を投入する正当性がないと主張
  • LGBTということをメディア等で広く扱うことにより、子どもたちがそうであってもいいと思ってしまい、(結果としてLGBTとして生きることを選び、)更なる不幸な人を増やしてしまうと主張

 

これに対して、LGBTの人たちもそうでない人たちも様々な人が反応しており、いわゆる炎上状態となっていますが、このことについて自分が言いたいことを大きく4点にまとめました。

  1. 子どもが作れないという「生産性」を盾に、支援の不必要性を説く事は筋が非常に悪い
  2. 自分の個人的な意見や見解、自分の視点から観測できる事象を過度に一般化すると、とても愚かしい人に見える
  3. 差別に自覚的でない人は、「自分は差別しない」という言葉を簡単に使う
  4. 政党政治的な意味合いを帯びることで論点が少しぼやけてしまうことが多い

以下で、それぞれの内容について詳しく述べます。

1. 子どもが作れないという「生産性」を盾に、支援の不必要性を説く事は非常に筋が悪い

今、LGBTというより主に同性愛(LG)の人たちが求めているサポートって「配偶者と同等の権利を得る事」「性的な多様性という概念を広め、差別をなくす/少なくする事」の2点に大きく集約されるという前提に立って進めます。というのも、正直、それ以上のサポートって思いつかないからです。LGBTであることで、経済的に損しているから経済支援をしろなどという支援はあまり目にした事はありませんし、そういう人は同性愛者やLGBTという括りでサポートせずとも、例えば生活補助等のセーフティーネットで対応可能かと思います。
その2点を主なサポート内容だと考えた時に、人類としての再生産性という観点で劣っているからと言って、行政に過剰な負担をかけうるサポート内容でないと考えます。

1点目の「配偶者と同等の権利を得る事」については、運用に当たって多少のコスト(職員の受付や質問対応、手続き処理等の工数、各機関への周知等)はかかることが想定されますが、それほど顕著なものではないのではないでしょうか。そして、その同等の権利・立場が得られた後に、行政の側として何らのサポートをする必要性は乏しく、実際には、その証明書等を持って自身の立場を証明していくことが必要となるだけだと想定しています。そう考えると、異性同士で結婚しているが子どもを持たないカップルと大差ないのではないでしょうか。彼らもサポートを受けるべきではない、子どもを持たないのであれば結婚制度を利用すべきではないという主張を杉田さんはしたいのでしょうか。

2点目の「性的な多様性という概念を広め、差別をなくす/少なくする事」については、そもそも生産性云々ではなく、「法の下の平等」というコンセプト上、「生産性」の有無に関わらず、行政として取り組む必要があることと認識しています。日本国憲法14条にある「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地によ り、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」という条文には、性的志向等の記述はありませんが、そのコンセプトを考慮すると拡大解釈して問題がないかと思います。女性差別先住民族差別の文脈においては、別途立法、条約の締結等が行われていますが、同様の流れでの立法やその法律に基づいた行政への適用が無条件にされていくべき内容だと思います。

以上より、今、LGBTについて求められているサポートは、「生産性」と関係なく必要なものであり、「生産性」を盾にそれに反対するのは、論点がずれており、大した意味合いはないと考えます。

 

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2. 自分の個人的な意見や見解、自分の視点から観測できる事象を過度に一般化すると、とても愚かしい人に見える

杉田さんも含め、性的志向による差別という極めて個々の状況が異なると想定できることを、個人の経験をもとに、過度に一般化すると、その一般化が妥当だと考えている時点で、思考力・想像力について疑問を持たれるのではないかと思います。杉田さんは、「自分は差別しない」ということを論拠に、世の中にそんなに差別はないのではないか、という主張をしていますし、一方で当事者で以下のような発言があります。

https://twitter.com/x_zamurai/status/1020352375729487872

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うん、わかる、わかった。君は差別を受けたと思ったことないんだよね。、、で?という感想しか持てません。

これも同様に当事者のツイートです。
このツイート自体には「悪意」はないと思いますし、ゲイの置かれている環境は自分も過度に悲観する必要がないかもしれないという意見には賛成します。
ただ、それをこの文脈で表明する事は、杉田さんの発言で苦しい気持ちになっている人にとってはしんどいなと思います。これ自体も一般化する必要が全くない、個々人の意見ですし、それを「日本」という言葉を使ってあたかも日本という国が置かれている一般的な状況であると当事者が表明することで、受け取る側は幸せな人とのギャップを感じて苦しくなってしまうだろうなと思います。

当事者の置かれている状況なんて多種多様ですし、人々の反応も多種多様です。

杉田さんのように差別をしない(と言っている)、非当事者もいれば、そうでない人ももちろんいるし、松嶋さんのように差別をされなかった人もいれば、もっと目に見える形で差別をされた人の話も自分は聞いたことがあります。上記の松嶋さんのように「おかま!」って気持ち悪がられた事を差別と捉える人もいれば、松嶋さんのようにポジティブな側面に目を向けられる人もいます。非常にセンシティブな問題だからこそ、それについての反応の受け取り方は人によってかなり幅があり、様々な思いを持っていることは想像に難くないと思います。
また、自分も含めてですが、LGBTはカミングアウトをためらう人が非常に多いです。カミングアウトすると差別もしくは差別的な反応をされてしまうのではないかということが怖いからです。経験上、カミングアウトせずに生きることは常に周りの人に対して何らかの嘘やごまかしを駆使しながら生きていく必要があり、その状態では周りと打ち解けたと思えることがほとんどなく、非常にストレスの高い状態で人生を送るということになると思います。それ自体を過度に悲観する必要もないと思いますが、カミングアウトしてしまいたいと思っているのに、出来ないでいる人は相当数いると想像します。
そういった自分の世界では起こっていないことを(意図的に)想像せずに、差別は存在しないという主張をする人は本当に想像力が欠如しているか、意図的に論を捻じ曲げようとする悪意があるかのどちらかで、どちらにしても、どうかと思います。

 

3.差別に自覚的でない人ほど、「自分は差別しない」という言葉を簡単に使う

杉田さんは自分は差別しないといいながらも、子どもがLGBTとして生きることになってしまうことは不幸、という主張をしていますが、これは差別なのではないでしょうか。

www.m-w-matrixa.com

こちらのブログをベースに考察をさせて頂きましたが、ここでは何かの属性に基づき、レッテルを貼ることを差別と定義しており、かつレッテルがネガティブなものであれば、差別の度合いとしては高いとして定義されています。
その定義に則ると、「LGBTは不幸だ」は紛うことなき差別発言だと考えます。例えば、これを「女性は不幸だ」「○○地域出身者は不幸だ」という内容に置き換えれば、当該属性の人たちから反発にあう事は必至だと思います。
確かに、不幸な人や自分を「不幸だ」といって嘆く人もいると思いますが、同属性の人を乱暴にくくって不幸であるという発言はやはり差別性を十分に帯びた内容だと思います。
そういう点では、杉田さんは無自覚に差別を行っているにも関わらず、自分は差別しない、つまり差別していないので、自分の考え方は変える必要がなければ非難されるべきではないと考えています。その点で非常に浅はかだなと思います。

差別することについて述べてきていますが、差別心が全くない人はいないとも同時に思っています。自分自身、特定の属性に対して、広く不快感があるなぁと実感することも有ります。ただ、それを認識することが大事だと思います。差別をしない善人であれ、とは言わないまでも、差別をする事は社会的に受け入れられにくいものであり、そのような事は少なくとも発言するべきではないという認識は持つ必要があるからです。

無自覚な差別への認識が乏しいからこそ、自分は差別していないと言うし、それを簡単に一般化して、世間に差別はないのではないかというような思考の飛躍が可能になるのだと思います。

 

4. 政党政治的な意味合いを帯びることで論点が少しぼやけてしまうことが多い

このポイントは、政争の具としてとなってしまうことで、本来必要である意味のある議論とは違う、 政権論争が絡まってしまい、不要なはずの論点が増えてしまうということです。

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これらの画像は、#0727杉田水脈議員辞職を求める自民党本部前抗議というハッシュタグのもと、ツイッターに寄せられた、デモの際の画像です。
憲法9条保持という関係のない政治的な主張が盛り込まれたり、Fワードという非常に下品極まりない言葉が使われてたり、デモ自体の価値が下げられてしまっているなぁと感じます。
結局、今回の、杉田さんの発言をきっかけに安倍政権を良く思わない人たちがここぞとばかりに活動を活発化させ、何が何だかという状況になってしまっています。
もちろん、声を上げる行動をするという事自体は許容されるべきことですし、それ自体を非難するつもりはありません。ただ、違う話までもデモに持ち込み、政権を追い込もうとする姿勢には疑問しかなく、議論自体を停滞させる効果しかないと思います。杉田さんは内閣の閣僚でもなければ自民党内でも大した地位に就いているわけでもない、言ってしまえば、「ただの議員」です。それを政権の問題まで広げてしまうのは、世の中の人もうんざりという状況になってしまうのではないかと思っています。(私もその一人です)

もちろん、マイノリティの権利拡大という論点が保守vs革新の大きな対立軸となってしまうことは重々理解していますが、過度な政治サイドの介入、政局への利用は良い結果を生まないと思います。

 

以上、結論としては、LGBT問題が過度な政治利用(保守・革新的な価値観の発信のきっかけとして濫用されること)は問題の解決には寄与しにくいのではないかと思います。
保守サイドで杉田さんのような差別的なスタンス、考え方を持っている方もいて、それ自体が彼らのポジションを表現するために差別的な表明をされてしまうこともあると思いますし、革新サイドでそれに過剰に反応しながら、彼ら自身のポジションを表現するため、彼らの究極的な政治的主張(政権打倒)に繋げられてしまうことも多いと思います。
ただ、そのような対立軸だけが際立ってしまうと、問題解決に繋がらない、鼻つまみもの的な政争の具になってしまう(もしくは既になってしまっている)のではないかということを懸念しています。例えば、慰安婦問題のように。
保守サイドでも建設的な議論を進めようとする人たちはいますし(自民党という党自体は消極的ですが)、革新サイドにも政争、政局として使う意図じゃない、本当の意味での問題意識を持っている人たちがいると思います。そういった方々が、党や全体としての政治的主張を超えて、問題解決に向けて動いていけるようになると良いなぁと思いながら見守っていきます。

 

 

はじめまして

はじめまして、とらです。

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